宇刈川源流の滝(Ukarigawagenryu no taki)

静岡県袋井市宇刈地図
 宇刈川源流の滝は葛城ゴルフ倶楽部の東側にかかります。



撮影2025/2/13
 路肩に車を停めて山中下池公園に行きます。
 ほうずき橋を越えました。
 すぐに二つ目の橋があります。こちらは滝見橋と名付けられていました。
宇刈川源流の滝(ウカリガワゲンリュウノタキ) 落差5m 評価2
 橋から上流を見ると茶色の筋が縦に通った崖が見えます。
 ただ、ほとんど水が流れていないのが残念です。
 滝の映像
 滝の左下にあるこの穴は一体なんなんでしょうか。
 続いて袋井市からは少し離れていますが、掛川市にある続百名城の高天神城(147番)へ行くことにしました。
 高天神城は徳川と武田とで熾烈な争奪戦が行われたことで有名です。
 長篠の戦いで大打撃を受けた武田氏は北条氏との同盟も破綻し、西から織田・徳川、東から北条氏との対応に迫られました。そして高天神城は家康が迫るにつれ孤立化します。
 家康は島田の諏訪原城(続百名城146番)を攻略し補給路を絶ち、高天神城のすぐ近くには六砦を築き、孤立化させました。高天神城城代の岡部元信は勝頼に援軍を求めますが援軍は来ず、最早、城は風前の灯です。
 1581年3月22日の夜10時、最後の時を求め、岡部元信は城兵730名を従え打ってで、玉砕しました。
 この時、岡部元信は先頭に立ちますが、打ち取った武将はまさか大将が先頭にいたとは思わず首実験で初めて分かり、大将首をとろうと意気込んでいた他の武将達は地団太踏んで悔しがったそうです。
 南口駐車場地図に車を停めて、10分ほどで本丸に着きました。
 本丸は細長い形状をしており、周辺は断崖絶壁で通路以外は通行出来ません。
 本丸から少し南に歩くと小さな神社がありました。高天神城の守護、高天神社の元宮です。かつて高天神社は東峰にありましたが、西峰に立派な神社を造って神様を移しました。
 今でも毎年3月最終日曜日には元宮に神様が里帰りされる高天神社例大祭が執り行われています。
 本丸続きの御前曲輪跡に元々この地を治めていた小笠原長忠※の顔はめパネルがあり笑えました。
 背後の四角いセメントの土台は太平洋戦争前に築かれた模擬天守跡です。
※小笠原長忠
 父、氏興は今川氏の家臣でしたが、桶狭間の戦いで今川氏が負けると一族ごと徳川氏に移りました。父が死ぬと高天神城主を引継ぎ、金ヶ崎の戦い、姉川の戦いなどで武功をあげ、三方ヶ原の戦いにも参陣します。1574年、武田勝頼に高天神城を包囲されると降伏し武田家臣となり、その後、国替えにより駿河に移りました。最後は家康に捕らえられ処刑されたとか所説あります。
 西峰の高天神社にも行ってきました。
 籠城戦に井戸はつきものとは言え、山頂に井戸があるのには驚きです。
 井戸の向こうには鳥居と石段が見えました。結構、急な石段です。
 石段を登ってやっと社殿に到着しました。
 山の上にも係わらず、立派な社殿に加え社務所もあるのにびっくりです。
 神社の背後には馬場平と呼ばれる高台がありました。
 馬場平からは遠州灘が見えますが、風車がたくさん回っているのが、いかにも遠州の空っ風を象徴しているようです。
 馬場平の西はずれに抜け道がありました。横田甚五郎が馬でこの道を駆け下り甲州の勝頼に落城を伝えます。
 岡部元信は家康に降伏を申し入れますが、聞き入れられず兵糧も尽きる中、玉砕するしか選択肢がなくなりました。一説には信長が勝頼の人望を失墜させる為に家康に指示したそうです。
 実際、勝頼は高天神城を見捨てたことで、家臣からの信頼をなくし、その後の家臣団の離反をよびました。戦意がない敵を殲滅したことで、残酷とも思われましたが、武田家滅亡まで考えた行動とすれば、さすが信長です。



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