不忍の滝(Shinobazu no taki)

愛知県新城市長篠地図
 不忍の滝は1575年の長篠の戦いの舞台となった長篠城址にかかります。



撮影2025/2/6
 16年ぶりに百名城の長篠城(43番)を訪れました。
 土塁と堀もしっかり残されています。
 本丸跡には立派な案内も立っていました。
 本丸跡から対岸を見ると鳥居強右衛門が磔になった場所が見えます。
 長篠の戦いでは5千人の奥平貞昌軍が1.5万人の武田勝頼軍に包囲されながらも持ちこたえていましたが、いよいよ兵糧が尽きようという時、鳥居強右衛門が城を抜け出して、岡崎城の信長と家康に状況を伝えました。
 岡崎城では信長軍3万人、家康軍8千人がまさに長篠に出陣するところだったので、鳥居強右衛門は朗報を長篠城に伝えようと急いで戻ります。ところが、武田軍に捕まってしまいました。武田勝頼からは、「城に向かって援軍は来ない。城を明け渡せと叫べ。そうすれば、命を助け、所領も与えよう。」と言われます。
 鳥居はこれを承諾し、対岸に来ると、「あと二、三日で、数万の援軍が到着する。それまで持ちこたえよ」と大声で叫びました。これを聞いた勝頼は激怒し、その場で鳥居を磔にして殺してしまいます。援軍が近いことを知った奥平貞昌は、鳥居の死を無駄にするなと軍を奮い立たせ援軍が到着するまでの二日間、見事に城を守り通しました。
 この功績により奥平貞昌は信長から一字を貰い信昌と改名、家康からは長女亀姫を正室に貰うとともに天下の名太刀「大般若長光」を下賜され、明治維新まで大名家として続きます。鳥居強右衛門の子孫も奥平松平家の家老として厚遇されることになりました。
 前回は不忍の滝の滝つぼまで降りましたが、今回は立入禁止のロープが張られていたので滝つぼへ行くのは自重します。
不忍の滝 (シノバズノタキ) 落差8m 評価6
 本丸跡から基石川を見ると木々の間から急な崖を伝って落ちる滝が見えました。450年前にここで戦いが行われたとは思えないほど静かです。
 滝の映像
 本丸跡からは線路を挟んで反対側に鳶ヶ巣山が見えました。
 織田と徳川の大軍が来ることを知った山県昌景・馬場信春・内藤昌秀ら信玄時代からの重臣は撤退を進言しますが勝頼は聞き入れません。
 織田・徳川軍は設楽原で軍を停め三日かけて馬防柵を作り決戦への準備を整えます。と同時に酒井忠次が鳶ヶ巣山砦を急襲、長篠城の奥平軍とも合流し、武田軍の退路を絶ちました。
 退路を絶たれた武田軍は織田・徳川連合軍が待つ設楽原へ向かうしかなくなります。
 続いて設楽原歴史資料館へ向かいました。
 長篠城と設楽原の位置関係がジオラマで良く分かります。
 火縄銃がたくさん展示されていました。
 長篠・設楽原の戦いでは武田騎馬軍団に対し織田・徳川軍は馬防柵と鉄砲により対抗したとされます。確かに長篠合戦図屛風にも描かれていました。何よりもこの絵図には、信長、秀吉、家康の戦国三英傑が描かれていることが驚きです。このことからもこの合戦がいかに重要だったかが分かるでしょう。
 こちらが実際の設楽原に設置された馬防柵ですが、いかにも急ごしらえに見えました。一説にはあえて貧弱に作ることで勝頼に突進させるよう仕向けたとのことです。
 まんまと信長におびき出された武田軍は設楽原で敗走し、山県昌景・馬場信春・内藤昌秀など多くの武将を失って甲斐へと帰りました。その後、北条氏との同盟破綻、高天神城の落城、家臣団の裏切りもあり、長篠の戦いから7年後、ついに天目山の戦いで武田氏は滅亡します。



撮影2008/12/6
 長篠城趾の本丸跡にかかる滝です。
 1575年にこの城を巡って3万8千人の織田・徳川連合軍と1万5千人の武田軍が戦いました。
 本流の豊川に落ち込む滝が少しづつ後退して出来た滝で、侵食された深い谷は、長篠城西側の天然の堀の役目をしているそうです。
不忍の滝 (シノバズノタキ) 落差8m 評価6
 「降り口は危険ですのでこの位置でご覧下さい」とありましたが、滝つぼまで降りてみました。
 案内板のところから見た方がまわりの紅葉が前景となって断然良かったです。
 崖を降りた時、余りの急さに武田軍が苦戦した理由が良く分かりました。
 滝の映像



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