不動修行滝(Fudosyugyo taki)

岐阜県恵那市岩村町
 天瀑山の麓の天瀑成田山というお寺から、奥の院へ行く途中に見ることが出来ます。



撮影2025/6/16
 百名城に選定されている岩村城(38番)に行ってきました。
 岩村城は高取城(61番)、備中松山城(68番)と並び日本三大山城に数えられています。
 最も比高(446メートル)がある高取城、現存天守で最も高いところ(480メートル)にある備中松山城に対し、岩村城は標高721メートルの最も高いところにある山城であることが評価されました。
 駐車場に車を停めて歩いて行きます。
 初門に到着しました。ここで真っすぐ伸びた城への道が初めて曲がります。
 有事の際にはここに臨時の門が築かれ交通を遮断しました。
 一の門に到着です。
 ここに築かれた二の門は土岐門と呼ばれました。廃城後に岩村町の徳祥寺山門として移築され現存しています。
 ここには畳橋という橋がかかっていました。
 敵が攻めてきた時に霧が出て城を護ったと伝わる霧ヶ井という井戸で、岩村城の別名「霧ヶ城」の由来になっています。
 6段になった面白い形の石垣が見えました。地形に合わせて石垣を積んだため、菱形になったそうです。
 岩村城は鎌倉時代初期に遠山氏が築き戦国時代まで城主を務めました。遠山氏最後の城主景任は織田信定の娘、おつやを娶りますが、子供がないまま病没してしまいます。そこで、織田信長は5男の御坊丸を遠山氏の養子にしますが、幼少だった為、おつやの方を女城主に任じました。
 その後、武田方の秋山虎繁に攻められ、おつやの方は秋山虎繁の妻になるとの条件で降伏し武田氏に寝返ります。
 1575年、長篠の戦いの後、岩村城は織田氏に攻められますが、武田勝頼の援軍が間に合わず攻め落とされ、秋山虎繁とおつやの方は岐阜城近くまで連行され長良川で磔にされてしまいました(女城主おつやの方の悲哀物語)。
 江戸時代に入ってからは元禄時代1702年に信濃小諸城から松平乗紀が入城し、大給松平氏で明治維新を迎えます。
 本丸への道のりは複雑な虎口になっており、敵の進入を困難にするのでしょう。
 歩き始めて40分ほどで本丸に到着しました。
 本丸には井戸もあります。
 岩村城下町が良く見えました。
 城下町は古い町並みが残り、「重要伝統的建造物群保存地区」に選定されています。
 続いて近くの不動修行の滝へ向かいました。
 立派なお堂はどこへいってしまったのでしょうか。
 滝への道も草が生い茂っていました。
 そのまま天瀑山登山道を歩きます。
 途中、木々の向こうに滝が見えました。
 奥の院に到着です。
不動修行滝(フドウシュギョウタキ) 落差25m 評価6
 奥の院から上流の滝は木々が生い茂って良く見えません。
 下流へ廻ると赤い壁面を流れる滝が見えました。
 滝の映像



撮影2014/8/23
 天瀑橋の手前の空き地に車を停めます。橋を渡って左へ行くと天瀑成田山、右へ行くと奥の院へと行くことが出来ます。
 天瀑成田山にはなかなか立派なお堂がありました。
 右の登山道に向かうと、熊出没注意の看板があります。
不動修行滝(フドウシュギョウタキ) 落差25m 評価6
 奥の院へは石段を登りますが、左側へと踏み跡が続いていたので、行ってみると下段の滝へ出ました。壁面が赤くなっているのが特徴です。
 滝の上を見上げると道のようなものがあったので、滝の右側をよじ登ると本来の登山道がありました。小さな木橋を渡ると滝前です。
 左に垂直に近い壁が迫る中、3段のきれいな滝がありました。壁面が赤いのは下段の滝と同じです。ただ、残念なのは背後に堰堤があったことです。
 滝の映像



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